とくでん書房

徒然なるままに日暮し

世間

「お世話になります。」

 

不意に声をかけられた。

日曜の夕方、近所のスーパーで今夜のビールのつまみを選んでいた。

反射的に

「あっ、こちらこそお世話になります。」

 

顔を思い出せない。

 

ビールのつまみは諦めて、思い出せないことを悟られる前に「でわ」とその場を離れた。

 

 

顔を覚えるのが苦手だ。

 

学生の時の友人を見かけても思い出せない。だから声をかけられないように、文字通り逃げるようにその場を去る。営業先で2回目にお会いした方に名刺を渡そうとして怪訝そうな顔をされる。そんなことはしょっちゅうだった。

 

顔を覚えられない理由も、恐らくはわかっている。

恥ずかしがり屋な性格が災いして、相手の顔をしっかりと見ていないのだろう。

 

じゃあ、しっかり見れば。とはいかない。

 

いかないのだ。

 

ひと昔前なら初老と言われるこの年まで蓄積した性格は簡単には治らない。それにその情熱もなかった。

 

男は「もしかしたら知り合いかも」という世間から逃げるように、いそいそと暮らすしかなかった。

 

もうビールのつまみを探しにスーパーに行くのも怖くなっていた。