とくでん書房

徒然なるままに日暮し

正解

「あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ そのせいだろうか
僕たちが知りたかったのは いつも正解などまだ銀河にもない

一番大切な君と 仲直りの仕方
大好きなあの子の 心の振り向かせ方
なに一つ見えない 僕らの未来だから
答えがすでにある 問いなんかに用などはない」

 

正解などない世界にあって、それでも自分なりの正解を求めようとする若者の成長は頼もしく、それでいて我心には重い。

 

大小はあろうが、大人はそれぞれ自分の中の正解を持っているものだと最近感じさせられる、正しいかどうかは関係なく。正解はない、と言いながら正解を求めるのは、自分の正解と他人の正解を議論し、より良い何かを期待しているからだと思う。

 

残念ながらそれが自分にはない。

特に最近は自分の正解がない。

いや、ないのではなく、わからない。

本当に分からないのだ。

だから人と議論はできない。

人の正解を聞くだけで、その人への相乗効果も提供できない。

まったく子供みたいだ。

 

先の参議院議員選挙では、各候補者が自分の考えを、つまり自分の中の正解を話されていた。それはある人にとってはとんでもない間違いかもしれない。でも、その人の中では正解なのだ。否定的な意見とは単に自分の正解と違うだけのことかもしれない。

様々な正解が集まり、議論されることによってより良い世界に向かうことができるとすると、その否定的な意見も必要なのだろう。

 

割と自分の中の正解がもやもやな感じで人とお話をするのはしんどいものです。否定も肯定もない・・・。

なさけない、という声が聞こえてきそうですが、逃げるは恥だが役に立つ。というのはいかがでしょうか。

 

なんつって。